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フィンセント・ファン・ゴッホ アルルの公園の入り口と道路工夫の解説

フィンセント・ゴッホ

ゴッホは2年間をパリで過ごし印象派の画家たちと交流した後、1888年2月アルルに向けて出発した。ゴッホはより平穏な生活を求めながらポール・ゴーガンを指導者として彼の元に集う芸術家たちの共同体を結成すること夢見てもいました。アルルで数ヶ月が過ぎた頃ゴッホはこの新たな共同体の拠点としてラマティーヌ広場に小さな黄色い家を借ります。<アルルの公園の入り口>は1888年8月から10月の間に描かれましたがこの頃のゴッフォはゴーガンと創作活動を開始するべく、ゴーガンの到着を心待ちにしていました。ファン・ゴッホはその拠点となる家を飾るために複数の絵画を制作。それゆえにこの時期は彼にとって非常に活動的な時期となりました。<アルルの公園の入り口>はゴッホの家の向かいにあった公園の入り口を描いたものです。麦ら和帽子をかぶった人物はこの時期に制作された多数の絵画に繰り返し登場しており、ゴッホ自身の自画像なのかもしれません。

アルルの公園の入り口・1988年 油絵 カンヴァス

 

 

 

 

道路工夫

1888年10月にゴーガンがアルルの黄色い家に到着して以降ゴッホとゴーガンは暮らしと制作を共にし始めます。しかし彼らの気質の違いのために共同の創作活動は失敗に終わることになります。ゴーガンが去る2日前、ファン・ゴッホは自分の耳を切り落とし、これによりゴッホは精神病院への入院を余儀なくされます。1889年から90年にかけての秋冬に病院の外へ外出した際、サン=レミにあるミラボー大通りの補修工事を目にしたゴッホはそこから着想を得て<道路工夫>の二つのバージョンを生み出しました。1889年ゴッホは弟のテオに次のように手紙を送ります。「私が完成させた最新の習作は村の光景を描いたもので、人々が巨大なプラタナスの樹の下で道路の舗装を修繕している。そこには砂の山や石や巨大な木の幹があり、葉は黄色く色づきつつある」それから約1ヶ月後、ゴッホはこの場面を描いた2つのバージョンを制作したことをこう書き残している。より早い時期の習作である<大きなプラタナスの木>は実際の風景を実写した習作と考えられており、完成度の高いこ<道路工夫>は1889年12月にアトリエで描かれ、ゴッホ本人によって「模写」と呼ばれました。アルルにいた頃よりも淡い色合い制作されており、そこにはより単純な色彩に再び挑みたいという、ゴッホの願望が表れています。

道路工夫 1889年 油絵 カンヴァス

 

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